「あ、それ、やだ。」
「分かんの。」
鳴らす音に不平を漏らすと、からかうような声が少し上から降ってきた。
窓の外側で、雨水が透明な線を何度もつくっていくのを見ながら、俺の言葉の所為で途切れた音に少しだけ笑う。俺の声でユキの指が動いて、止まる。そんな事実に錯覚する。ユキの音を操ってるような錯覚をする。奥の壁全面が硝子窓になっている広いリビングに半日いて、そんなものに満たされていた。
「ねえ、ほんとに分かってる、おまえ。」
フローリングの床に俯せたままのからだを反転させて見上げた視線の先で、ユキが笑っている。頭を僅かに動かして眼を合わせる。分かるよ。当然のように告げれば、面白そうに俺を見下ろす。うっすらと血管の浮く両腕で、先刻まで弾いていた楽器を緩く抱くようにして。やさしいな。その触れ方を見るたびに思う。四弦。ユキのだいじなもの。
チェロ。
「素晴らしいってさ。」
先生は、こんな音聴いて。
なにも映さない硝子玉みたいになったユキの眼が教えてくれる。温度の無い、見下した言い方にユキがどれだけ酷い人間か知る。此の広いリビングに染みこんだ、数え切れない音符の色や響きが、聞こえもしない雨音に潰されていくようだった。音楽以外の、ちいさな鈍色の欠片が隙間無く此の場所を侵していく。
音が、足りない。
「先生って、」
「家庭教師。チェロの。」
「ああ、あれ。」
長い茶の髪がユキの頬を隠す。薄暗いなかで、チェロの表面だけが綺麗にひかっていた。
そんなん要るの、おまえ。ユキは笑う。要らない。
「追い出しちゃえよ。」
「無理。あのひと、先生が大好きなのよ。」
家に上げる口実が欲しいんだって。そんなことをどんな表情で伝えればいいか分からないユキは、笑って言う。俺は視線を下げて、ああ、と言った。母親のことを、ユキはあのひとと呼ぶ。あのひとを困らすことも怒らすことも、逆らうことだってユキはしない。こどものお手本。其れがただの無関心の表れだとは、きっとユキの母親は思っていない。大人は何かを都合よく解釈するのに酷く長けている。
母親が男と関係する為に自分のチェロを利用される気分って、どうなの。そう言おうとして止めた。そんな言葉で、簡単にユキを駄目にしてしまうことだってできるんだと知ってる。どんなナイフなら傷つくのか分かるくらいに、ユキを見てきた。
「愛しちゃってるんだ。」
そうしないと落ち着かないと言うように、ユキの指が弦の上をゆっくりと滑った。ユキがどんな表情で、どんな目をしてそんな言葉を吐くのか、知らない。
だから、俺はどんなことでも問えるんだ。無関心に。
「ユキは、」
木目の残るチェロの表面を見ながら聞く。
「おまえは、愛されてないの。」
ユキが笑う。チェロに触れるときと同じくらいにやさしく。才能の無いものを卑下するときの残酷さで。
「そんなのは、要らない。」
一切の感傷を殴り捨てるように。ユキが言った。
なみだとか、俺ら子供には消化できない憎しみとか、そんなものを取り払おうとするような、わざとらしい軽さで。けれど、ほんとうはユキにはチェロさえあればいいのだと知ってる。弓を持ち、弦を触る両手があるならユキはそれだけで生きていけるのだと。
俺は、知ってる。
「なんか弾いてよ。」
すこし眠りたい。俯せになったまま、両肘を床にたててねだった。肘の骨が床にあたって、ごり、と音がする。ユキは弓を持ちながら、なにがいいの、と聞く。なんでも。おまえが弾いてくれんならなんでもいい。ほんとかよ、そう言ったユキの声は少し笑っている。
そうしてチェロを構える少しの無駄もない動きや、弦に弓を乗せるときの祈りのような神聖さを見る度に、意味もなく悲しく何処かがひりひりとした。
逸らせない其の動作が終わった後、俺は雨音から逃げるように冷えた床に耳を押しつけた。
ユキが弓を引く。音が鳴ると同時に空気がふるえた。
海の底から掬い上げたような低音。
床に響く微かな震え。頬に伝わる振動が口内の皮膚にまで届いて、俺は瞼を閉じてゆっくりと其れを飲み込む。ビブラート。ユキは音の震えをそう言った。弦を押さえる場所を変えずに、指先で細やかに鳴らすふるえ。そのときのユキの、細くて骨張った指が上下に動く様を思い出す。閉じた視界のなかにいるのに、ユキがチェロに触れるときのどうしようもない神聖さや、弦の上を綺麗に滑ってゆく指や動きを知っている。嘘みたいに分かっている。
ユキの音は、絶対に俺を裏切らない。
嘘の無い、其処で鳴ってるだけのほんもの。
ねえ、ユキ。そんな音、どこから出すの。
ユキのなかみ全部晒すような、どうしようもない音。
どこから出すの。
瞼の奥で感じていた音が、からだのなかに入っていく気がした。俺の中身全部、此の音だけになるのじゃないかと本気で思った。
それは、どんなに幸福なんだろう。
「泣いてんの、」
顔全部、腕で覆うようにしてる俺にユキの声がする。音が止んだのだと気付くと、からだのなかにあった音は泡のように簡単に消えてしまった。思い出せないほどしあわせな夢から、一気に醒めたようだった。喪失感に、自分の体が冷えた床の上に在ることを思い出す。
泣いてないよ。両腕の隙間から告げれば、嘘ばっか、と言われた。嘘なんか、俺は言う。
「吐いてない。」
ユキが、へえ、と冷めた声で。
「泣いてんだと思った。」
閉じた、真っ暗な視界の先で、そんな、笑うような声がする。
「どうして、」
「俺の演奏が素晴らしいから。」
それ、マジで言ってんの。喉の奥でくつくつと笑って言った。笑うなよ、ユキが裸足で俺の脇腹を突いてくる。
「本気だって。」
もう一回聞いてみてよ。
そうして、引かれる弓。
何の抵抗も出来ずに耳に滑り込む音。聞く人すべてを無抵抗にするような、音楽。
ユキのチェロ。
ユキの、母親に対するかなしみやにくしみすら取り払って鳴らされる音。もし今此処にどんな鋭い武器を持つ人間がいたとしても、知らない間に音が武器を溶かしてしまうだろう。何の意味も持たないものに、するんだろう。音楽以外のものなんて必要ないみたいな世界。チェロを弾くときのユキは、そういう途方も無い場所に住んでいる。
おまえの音がどれだけ素晴らしいかなんて、そんなことは知ってるんだ。
おまえの音を妨げるものがたくさんあることだって知ってる。
どうして、だいじなものだけ見て生きてゆけないんだろう。ユキは、音楽だけをやっていけないんだろう。どれだけ真摯にそれだけを見ようとしたって、母親や先生やたくさんのものがユキのチェロのなかには組み込まれてる。それらに対する、たくさんの色をした感情も。何処かにある。
なのに、ユキの音はなににもよごされてはいない。
そんなもの、どこから出すの。ユキ。
「やっぱ、泣いてんじゃないの。」
そんな声がする。けれど、今度はなにも途切れなかった。
ずっと“此処”にいれたらいい。ユキの音楽が支配する、世界。其処にいれたらいい。
ねえ、ユキ。
どうして俺たちは其処にいれないんだろう。
ユキのチェロが途切れない、しあわせな世界にいられないんだろう。
くん、と僅かに鼻が鳴る。するはずの無い雨の匂いが今にもしてきそうで、必死で眼を閉じた。なんにも見たくなかった。今、此処にある音以外なんにも認めたくなかった。
ユキのチェロが鳴る、それだけの場所にいたかった。ずっと。
「弾いててよ。」
声の出し方を忘れて、かすれた声で強請る。
子供みたい。ユキはからかって笑った。
ふるえる弦。引かれる弓。
俺はまた眼を閉じる。外のどんな音も言葉も入ってこないように、眼を閉じる。
俺の内側で、ユキの音が鳴るように。
きつく、眼を、閉じた。
04/07/22