Teacher's unknown thing






「ひとりで生きてる気がするんだ。」
 コンクリートに擦りつけたぼろぼろの花弁。雨に濡れて傷んだ其の薄紅をゆっくりと剥がしながら先生は言う。爪が切り揃えられた神経質そうな指で摘んで意味もなくじっと観察しているように、見えた。枯れていく茶色が、花弁を余計汚いものに見せてた。
「誰も側にいないような気がする。いれない、のかも知れないけど。」
 側にいれないものたちを慈しむような眼で、笑う。また、どうせこの人は他人を傷つけてしまうことを恐れているんだ。自分の所為で傷つけてしまってかわいそうだと、本気で思っているんだ。かわいそう。自分を酷くよくないもののように、思っているからそう言う。
 僕は、先生が自らを厭うときいつも裏切られた気分になった。
  子供みたいに地団駄を踏みたい気持ちと泣いてしまいたい気分で頭がぐらぐらする。鼻の奥が少し痛くなってアスファルトが溶けたような匂いがした。
「どういうときに、」
 そう思うんですか。いつも、思うよ。先生はそう言う。花弁をぺり、とふたつに破いて捨てながら、こういうときも、と付け足して。捨てた花弁は水を吸った所為で、無惨な落ち方をした。なんで拾ったのかとか聞くことを僕は随分前から諦めている。先生はいつだって意味の無いことをして気を紛らわせている。かたちにしてしまった言葉を誤魔化すようにそういうことを、する。
「偶に絶望する。」
 真っ黒く濡れたアスファルトに、ビニール傘を伝った雨水が染みこんでいた。通り雨だった。空は乾いた青さをしていて、コンクリートをひからせている。雨が止んだ後の晴れの世界は酷く眩しい。先生は遮るように眼を細めて、続ける。
「そばに、誰もいないことに。」
 先生の、真っ直ぐに伸びた黒髪に水滴がついていた。それは、ひかりを受けて黒髪をきらきらとひからせる。
 僕がそばにいます、とは馬鹿げた答えだったし、かと言って慰めが必要かと言えば先生に言えるような慰めの言葉を僕は知らなかった。下手な慰めが、どれだけこのひとの負担になるか理解していた。一度、先生を慰めようとして思い出せない位安易な言葉を口にしたことがある。そのとき先生は、笑った。何度も見たことがある表情だった。たくさん、つくられた顔。そうしてその顔で、そうだね、と言った。それは、本心とは全く別の言葉で僕のために用意された言葉でしかなかった。僕を安心させるために、或いは慰めた結果を欲しがる僕を満たすための、言葉。
 一方通行でやさしくない言葉を言ったのだと、分かった。
 僕は、二度とあのときのような先生の顔を見たくなかった。だからかなしいまま平気な声で聞いた。
「死にたくなったりしますか。」
 何処へ向かっているのか分からないまま、僕は先生と歩いている。骨張った先生の手は、ゆるく傘を握っていて、余分な力が何処にも入っていなかった。先生は酷く無防備で、けれど何にも油断してないと思った。横目で僕をちらりと見ながら先生は、すこし笑う。
 その笑い方を好きだと言ったところで、すまなそうにするだけなのだこのひとは。
「そんなことはないよ、生きたいと思ったことも無いけれど。」
 からからと引き摺る傘の先が音をたてている。すり減ってしまうよ、と先生は僕の手を掴んで傘を浮かせた。冷たい手のひらだった。器用そうな、長い指をしていた。じっと見ていたら、先生は腹がたつかと聞いてきた。なにに、僕には脈絡が無さ過ぎて分からない。
「さわられるの、嫌いなひととかいるじゃないか。」
 特にほら、僕はこんなだから。くたびれた自分の白衣を指してゆるやかな波のように、この人は話す。 先生は小説家だ。その前は科学を教えていて、白衣を着ていないと落ち着かないから今でも着ているのだという。薄汚れたしわくちゃの白衣に苦笑して僕を見る。僕は少し呆れた。先生は変なことを気にしてる。
「そうかな、」
 言った後にそうかもしれないと笑う。先生は睫を伏せてちいさく笑う。そんな動作に安心する。僕が、先生についてどんな言葉を口にしたって信じて貰えないから言わないけれど。
 せんせい。こんな風に想っている人間がいること、あなたは絶対に知ることはないんだろう。僕は、先生とキスやセックスをしたいとは少しも思わないけれど、そうして先生が笑うときにどうしようもない悲しみがいとおしく感じられることを、知ることはないんだろう。
 泣きたくなる。
 突然、陽射しがやけに強く頬を射した。どうしてだろうと思ったら、いつの間にかつめたい手は離されていて、僕の手は掴まれた位置に浮いたままになっていた。
 擦らないで歩くんだよ、先生はそう言った。
 白衣を着た先生の後ろ姿は、絶望を背負っていることが当然のような穏やかさだ。ゆっくりとした歩調。
「先生、なんで突然あんな、」
 あんなこと言ったんですか。薄曇りの空の隙間から、青色のアクリルで塗りたくったような空が覗く。ゆるやかに吹く風が、雲を動かしているんだ。同じように空を眺める先生は思い出したように、ああ、と呟いた。
「今日、ふたりで僕に会いにきてくれた子たちがいてね。」
 可愛かったなあ。
 このひとはどうして、僕の知らない話ばかり特別なことのように話すのだろう。僕は、先生が此の時間を特別なもののように話す姿なんて想像もつかないから。
 羨ましくなるんだ。
「ふたりで、絶対にひとりにならないんだ。そういうのが羨ましかったのかもしれないね。」  そうして、どういうわけか困ったように笑むんだ。
「先生は、泣きたくなりませんか。」
 止んでしまった雨の匂い。鼻がつんとした。温い温度が漂っている。雨が止む静けさは、泣きたくなる気分と少し似ている。少しだけ考えた素振りを見せた先生は、分からないよと笑う。もう、子供じゃないからね。きみは、先生が僕を見る。
「どういうときに、」
 泣きたくなるの。今度は先生が聞く。
 僕は言葉を知らなくて、ただ黙る。先生には決して分からないものだと知っているから何も言わない。こうして先生の近くにいることが、どれだけ大事な時間かこのひとは知らない。なにも知らない。
 この思いは、いつまで続くだろう。
 あなたに分かられたくて、あなたを分かってしまいたいという、獣のように凶暴なこの思いは。
 いつまで。
 いつまで、続いていくんだろう。
 せんせい。
   


04.12.30