強力な夏の太陽が、雨上がりの地面を焼いていた。
 灰色の重たい雲が消えた空は、殺人的にも思えるくらい綺麗な青色をして、俺たちの目を突き刺す。 
 世界を覆う大きな青は残酷なやり方で人間の矮小さを教えた。 
 誰も掴めないものをあっさりと掴んだ者の持つ、無知を超えた愛しいほどの笑顔のように。 
 俺達は、限りなく冷酷に空から突き放されている癖に、無限のやさしさに涙腺を緩ませたりした。

(それでも犯し続ける過ちにばかり正当さを求めて生きた。)
 蟻と等しい価値を天から与えられて。必死に。
(泣きそうになって何度も虚勢を張った。)
 いっそ見なければいいんだ。空を。
 けれどどんなに眩しくても逸らしきれない証拠が、視界から全身にまわる。
 もう誰も、からだを巡るこれらの証拠を取り除いてはくれないと知ってる。
 誰にも暴かれたくないと思っていることも。知ってる。いつから、なんて知らないけれど。
 
 はじめから。
 
(俺等はいつだって迫り来る空の青さに怯えて。 手の届かないものに対する憧れという名の畏怖。 押し潰される鮮明さ。人外の色。)

 今此処に空を塗れる真っ黒な絵の具があったら、絶対に手にするだろう。
 そしてこの空を真っ黒にするんだ。
 汚い俺が生きていけるように、真っ黒にするんだ。
 
 
 

 
 
 
さ  ん  か  く

(お前の背中に遮られた、俺の見る空)
 
 
 
 

 
 
 屋上には、俺とチアキ以外は誰もいなかった。4時間目のチャイムが後ろ手で閉めた校舎の中から聞こえている。現国の授業からずっとしている頭痛が止まない。俺は、眉間に皺を寄せてひとり耐える。チアキが、うっわしかめっ面。とからかうように笑った。痛いんだよ、畜生。と言いたくなって、でも言わなかった。言うと五月蠅い。確実に「大丈夫か」が連呼される筈だ。小学生じゃあるまいし。その方が嫌だ。
 きっと、リンリン(現国の先生のあだ名だ)の話が長すぎたせいだ。
 もっと要領よく話しやがれ。
 頭の中でさんざん悪態をついていたら、チアキが紙パックを俺の前に差し出す。しつこい甘ったるい匂いがした。頭痛が酷い。吐き気も増す。
 チアキが、瀕死の俺になんて気付かずにへらっと言った。
「飲む?」
「いらん。」
 ああ、そう?それだけで、俺の前から引き離す。よくこんな甘いものが飲めるなと片隅で思う。
 安っぽいピンクのパッケージ。温いいちごみるく。温度を奪った水滴が、チアキの指を濡らしていた。
 チアキは、ひとりでのろのろと金網の側まで歩いていった。チアキの歩き方は、どこか力が抜けている。子供のように歩く、といつも思う。ぺたぺたと履き潰した上履きの音。
 がんがん言う頭で聞いてた。止むまで。
 俺は、屋上のドアの前から動かずに屋上の端で下界を見ているチアキの背中を見た。
 俺とお前の差は、3メートル。
 俺には有効な数字だ。お前にはきっと関係ないだろうけど。
「なー。こっから落ちたらさぁ、どうなっかな。」
 校舎の下を見据えて、チアキが呟いた。屋上の金網に、バスケットボールを掴む骨張った指を絡ませて。チアキの表情は見えなかった。どんな顔してるのか見たいとは思えなかった。想像はついた。
 容易に。
 俺は、少しだけ考えたフリで、時間を取ってみる。一応。
 だって、そんなの決まってるだろ?落ちたら、なんて。物理の初歩だ。消しゴムを落としたらどうなる?って聞いてるのと同じ質問だ。
 誰だって分かる。落ちるだけだよ。床に。
 俺等なら、地べたに。
(落ちるだけだ。)
 情けない音をたてて。
 簡単な質問だから1秒も考えることなど本当は無い。
 でもすぐに答えを返すと失礼なことにこいつは絶対、お前考えてないだろ、適当言ってんだろ。なんて言って疑うから時間をとるんだ。10秒くらい。
「ぐちゃぐろぐちょ、じゃね?」
「いや、擬音語だし。それ。」
 すかさず入るツッコミ。俺はそれに少し笑う。
 ・・・っとによ、エイはいつだってそうだ。とぶつぶつチアキは不平を言う。俺は気にしない。  湿った風が俺達の間を通って、視界の端に色素の薄い髪を捉えていた。
 猫のような気儘さと愛嬌、鋭さを持ち合わせたチアキの横顔に苦笑する。不機嫌そうにしかめられた眉に。あの日と寸分違わないようなチアキの世界を見る。
 眩暈のする夏の。蒸すような熱気に閉じこめられた日々。
 小学校からの腐れ縁だった。こいつとは。
 パックを伝う、人肌の温度になった水滴が停滞した空気を明白にする。こんな日は、ワイシャツが汗を吸い込んでも簡単に乾かずに、湿ったままだから気持ち悪い。俺は、ボタンを二つ外したワイシャツの前を掴んで風を入れる。
 コンクリートの乾ききらない屋上は、少し湿った雨上がりの匂いがして鼻をツンとさせた。上履き越しに足を伝わってくる温度が冷たい。
 俺は、屋上のドアから体を離して歩きながら。チアキの要望に応える。
「っだなー。まず下に向かう高速のスピードに体が軋んだりするんじゃない?で、真下のコンクリートに痛みを感じる暇もなくぶつかってアタマ割れて血がどろどろ出てー、あ、それとも脳味噌とかぶちまけちゃう・・・」
「やっぱ、いい。」
 うんざりした声が折角詳しく答えてやってる俺を止める。金網に頭をもたれるようにして青い顔をするチアキを見ながら言う。
「何でよ。知りたいんだろ。お前の我が侭に付き合ってやってる俺は偉大なんだから聞いとけ。出血大サービスってやつだ。」
「だって、一々お前の話生々しーんだよ。」
 自分から聞いておきながら、不満ばかりだ。俺は溜息を吐いて、チアキの隣に立つ。左手のいちごみるくを無言で頭にぶつけて渡す。不機嫌な顔をそのままに、チアキはそれを受け取った。
 ぷすっとストローを指して、ふてくされた顔で喉を鳴らして飲む。
「ぬっる・・・。」
「あー俺の温度が移ったんじゃない?」
「あー・・あっちい・・。」
 チアキはだれた声でそう言うと、量の減らないいちごみるくをコンクリートの上に置いた。たぷんと音がした。あ?飲まねえの、と俺は聞いた。
 チアキは、やっぱこれ甘いなとようやく気付いて顔をしかめた。
「つか、お前バスケの昼練。行かないでいいの。」
 俺が聞くと、チアキは今思い出したみたいな顔をして、いや実際そうなんだろうけど、うああって言った。やっぺ、忘れてた!てか待て!お前もだろ、俺だけじゃないっ!自信ありげにいうチアキに、俺は金網に体重を任せて、暑さにだれた口調で言った。
「でも俺強いし。練習要らずっていうかぁ。」
(てかこんな暑い日にスポ根なんて無理。)
 じゃあ俺も強いからいい。開き直ってそんなことを言う。嘘つけ。
「いや、お前は弱いだろ。」
 俺は即答する。チアキは素直にへこんで、そのままずり落ちてコンクリートに座り込んだ。髪が揺れる。湿ったコンクリートに座ったら制服湿ってしまうのに。
 チアキは構わない。
 俺は少し前の話題を問う。
 
「なあ、なんでそんなこと聞いたの。」
 
 チアキは答えずに、苦笑した。
 それだけで想像だけはついた。
 俺は多分、分かりすぎていた。チアキについて。
 
 
 
 
 
 放課後の廊下は、女子の声がしている。
 教室に残っている人間の大半が女で、きぃきぃした声で話す。楽しそうだ、と思った。
 いいね、と思う。

(楽しそうでいいね。)
(馬鹿みたいに笑えていいね。)

 見下した気分で、そんなことを考えた。階段の上から、校舎内を見ているような気分にはよくなる。
 俺は結局、放課後まで放っておかれた挙げ句、半ば無理矢理に押しつけられた左手のいちごみるくを見た。頭痛は止まない。
「あ、エージ君だ。さっき森下が探しに来たよー。常習者だなぁ、エージ君。」
 教室に入ったら、机囲んで話してる中の一人がそう言って笑った。クラスの女のほとんどが俺のことをエージ君と呼ぶ。砂糖みたいな甘ったるい声で、呼ぶ。俺は甘いのは苦手だ。
 にこにこ笑う女の名前を思い出せなくて、けれど案外どうでもいいことに気付いた。
 頭痛が2割り増しくらいになっていて、全部最低だと理不尽なことすら考えはじめてた。脳が。
 教室には、その女を含めた6人くらいの集団と、机に座って教科書広げてる女がいた。黒髪を結って眼鏡を掛けてる。俺はそれを流し見て、それだけだった。
 話しかけた女は、目が大きくて少し化粧が下手だった。濃すぎる。今流行の香水の匂いがした。みんな同じだ。俺はそんなこと考えてない顔で笑う。
「だって俺練習しなくても上手いし。」
「もー王様だね!エージ君は!」
 グループで固まってた他の女子も笑った。みんな同じだった。
(つまんねー。)
「あ、これあげます。ギブユー。」
 俺は温くなってまずいいちごみるくをその女に進呈した。女は、僅かに怪訝な顔で、けれど手に取った。それからまた笑った。
「あーどうもーって、温・・・ッ!」
「有り難く受け取ってくれたまえ。じゃ。」
「何帰るの?部活は?」
「だからやりませんって。マジ今日は無理。死ぬから。」
「あー暑いもんねぇ。でもさー、鳴多君真面目に出てるんでしょー。可哀想だよぉ?」
 鳴多。チアキの名字だ。俺は、無性に何かを踏みにじってやりたくなって、それこそ、その辺の虫にすら容赦できないくらいの気分で。潰してやりたい、と思った。俺は冷酷なほどに醜い感情に今更驚かない。知ってたから。
 俺はチアキを軽く呼ばれたことや、顔と同じで礼儀悪く此の関係に不法侵入する女に苛ついているのか、よく分かっていなかった。何に対して自分が怒っているのか考えたくなかったのかもしれない。
(頭痛が痛い。)
 どうすれば和らぐか、って言ったら此処から出ればいいってことだ。簡単な思考。
 今考えればいいのなんてそれだけだ。
 俺は、が、って椅子を蹴って。そしたら、女達は無言で。俺のこと瞬きしないで見てた。奥で勉強してた女だけ、何の反応もなかった。知ってた、って顔で。俺の方一度だけ見た。
(でも別に今は全部どうでもいい。)
 女の止まったままの手に握ってあるいちごみるくを見て。
 笑ってやった。

「そんなの関係ないし。」


(俺って最低?)




 チアキには、カオルという彼女がいる。
 名字は知らない。同い年で。
 あんまり甘くない。俺はその女を苦手だと思った。案外美人であったのに、苦手だと思っていた。
 少し、俺に似てた。

(チアキを知っているところが。)




(次の日も、俺はやっぱり部活をさぼって屋上で寝てた。)

 瞼の裏で、やけに眩しい青さが見えた気がして、起きたら。何故かチアキが其処にいて、俺は、今どこにいるんだっけ、と前後不覚の人になっていた。一度だけ瞬きした。次にはチアキが消えているだろうと幼稚なことを思っていたが、チアキはやっぱりいた。
 汚れた上履きの踵が見えたから。きたねえ字で、ナリタって書いてあるの見えた。
 油性ペン。消えない黒。
 俺は寝転がったまま、俺を覆っている青空に潰されながら聞いた。救いを求める心境に似ていた。
(だって頭痛がひどい。)
「ね、今何時。」
 チアキの足が、ぴく、って動く。
「5時。」
 五月蠅くない声でそれだけ降りてきた。頭の方に金網があって、俺は腹筋を使って、チアキを見ようとした。
 チアキの白いワイシャツの端が見えた。
「んで、お前何でそっち側にいるの。」
 俺はゆっくりと起きあがって、向こう側のチアキを見た。金網の向こうの、コンクリート。
 守られていない場所で、立ってた。
 背中しか見えなかった。
 心臓の音がやけに大きく聞こえる。額を流れる汗が、俺を正気にさせた。
 僅かに。
「危ない、」
 言うと、チアキの肩は、かたかたと揺れた。
「平気だって。」
「死ぬよ。」
「別にいい。」
 
 
 
 
 
 
 馬ッ鹿じゃねえの。
 
 
 
 
 
 俺は金網に足を掛けた。かしゃんと言う音にチアキが反応して俺の方を振り向いた。いつもと変わらない阿呆面に腹が立って、軽く頭を叩いて。
 手を、差し出した。
「ほら、」
 チアキは少しの間、俺の手をじっと眺めていてやがて観念したようにその手を掴んだ。そうして、顔全部で笑った。
 馬鹿な話。
 太陽と変わらないくらい凶悪な、笑い方だったと思う。
「そうすると思った。」
 俺のことなど大して理解してないくせに。そんな風に言う。
 
 
 
 
「ちーちゃんは何でそんなにセンチメンタルなのかなー。」
 真面目に聞くのも馬鹿らしいようで、ふざけて聞いた。表情と声が乱れないように平常心を装って。額の汗は引けていたから、動揺を悟られることはないと思って安堵すらした。
 そんな体裁ばかりの自分をいつも疎んでいる。俺は。
 チアキといるといつも、自分の大人ぶった吐き気のする一面に気付く。露にされる。それはチアキが、まだ捨てずに持っていられるものがあるからだろう。
 俺は其処に固執してるのかもしれない。
(ふざけてる。)
 八つ当たりでコンクリートにしゃがみこんだチアキの頭を掌でわしゃわしゃとかき乱すと、口を尖らせて髪を直しながら僅かに顔を上げた。
「ちーちゃんて何。」
「お前、子供だから。」
「何で、年同じゃん。」
「子供だろ。」
 呆れた視線を送ってやると、チアキは意見を聞いて貰えなかった子供のような顔をした。
「なあ、見たことあんの?」
 俺はこいつより5センチ高い目線で世界を見ていた。空は変わらず青かった。どんな絵描きも表すことの出来ない青さで。
 圧倒していた。いつも。
「あ?」
 横目で、どこか聞きにくそうな目をしていた。チアキは。
「・・・自殺。」
 遅れて聞こえた言葉は、何も知らない癖に気がかりな声音で響く。
 チアキは馬鹿なくせに変に鋭い。天然てやつか。
「ねェよ。」
 笑う。触った金網は雨で濡れていて、金属の匂いの移った液体が俺の手を汚す。嫌な感触だと思う。血のようだと思いながら濡れた手を見つめた。
「嘘っぽい。」
 本当にこいつは疑い深い。うんざりと息を吐いたが、鈍いチアキは気付かない。
「どこが。」
 問い返せばいつだって困る。
「・・・え、だってやけに詳しそうだし、あと・・・・それに笑い方がなんっか似非?」
 首でも絞めたろうか、と考えて結局視線だけに留まらせる。
「へえ。人聞き悪いねえ。血を見たいの、チアキは。」
 ガシャンと、握った金網がいい具合に金属的な音を出した。
「うわ、悪かった。ごめん。もう言わない、絶対言わない。」
 両手を挙げてチアキは謝っていたが、顔は笑っていた。俺は馬鹿だなあ、こいつ。と思う。
(いつまで、)
 いつまでチアキはこうしているのだろうか、と俺の弱い部分は考える。絶対に止められることのない変化を阻もうとする気などない筈なのに。
 止められる筈もないのに。
 だってチアキだ。
 次第に冷たさを増す風を頬で受けながら。曇った世界を眼下に見る。
 そうして少しの間黙っていたらチアキが、確かめるように俺に言った。
「俺、エイがこっから落ちようとしたら何があっても止めるよ、きっと。」
「何よ、突然。」
「うん、止める。」
 俺の質問なんか全然聞いて無くて、ひとりで納得して完結する。
「だから何。」
「俺、エイは殺してでも止めるけどカオルが落ちるんなら一緒に落ちる気がする。」
 俺は別に驚かない。知ってるよ、そんなこと。
 チアキはきっと大して難しいこと考えもせずに、こういう答えを出せるんだ。シンプルに。自分のやりたいこと知ってるんだろう。
「でも、そしたらエイ俺のこと止めんの。」
「お前は、どっちがいいのよ?」
 俺はそれだけを聞いた。チアキはふふっと笑っただけで答えを言わなかった。何笑ってるの、お前、キモい。ひっで。チアキはそう言ってまた笑う。なあ、俺の言ったこと分かってねえの?何笑ってんの。俺笑い上戸だから。意味不明なことを言ってまた笑うし。
「や、使い方間違ってるでしょ、それ。」
 チアキは、金網を掴んだまま体重を後ろに移動させてぶら下がった格好になる。それから、やけに真剣な目つきで、真っ直ぐ空を見てチアキは言った。大きな目が、青空を吸い込んで。
「つかさ、エイが落ちたらなんか悔しいしさ。一回も勝ててねーんだぜ、エイに。」
 バスケで。
 チアキは悔しそうに言った。
「一生勝てないよ、お前。」
 俺は笑って。
 
 チアキの背中を蹴ってやった。
 
 
 
 笑って。
 前へ行けと。
 あの空と同じように今すぐ俺を追い越してこの汚れを踏みにじってくれ。
 
 
 
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