リトの頬は白い。
アルコールを摂っても、部屋を熱くしても、気分が上がっても、あかく染まることはない。だから、温度を感じさせないその頬から読み取れる感情はあまりない。触れればじわりとあたたかく少し力を込めればやわらかい皮膚が窪むのも、知っているけれど。そういうことを隠すようなリトの白が僕は少し苦手だ。
今だって。
どうしてその頬に、涙が伝っているのかよくわからない。
ひ と り ご と
寒がりなリトのために部屋の温度はひどく高い。軽い息苦しさにやられた頭がじわりと痛くて、目の前のリトからは涙が流れていて、僕はなんだかくるしいなあと思う。
働かない頭から痛みを追い出そうとゆっくり首を傾げたりしている間も、涙は白い頬を伝っていく。大きな出窓のあるリトの部屋は昼間なんか明るすぎて、何もかもがはっきりと見えてしまう。
幾ら静かに泣いてみたって、こんなところじゃ誤魔化せない。
頬を伝うものがひかりを吸うのも、眼の縁が陽の光できらきらしているのも。
(全部見えてる。)
せめて、わんわんと子供のように泣いてくれるのなら今ほどくるしくはなかったのかもしれない。少しずつ、けれど確かに染みていく傷みたいに静かに泣くものだから、考えてしまうのだ。
リトに何をするのが、ただしいのかって。
抜け出せない沼みたいな思考に沈むには、あたたかすぎる部屋のなかで。
「リト。」
どうしてだかふるえた僕の声に、僅かに眉をしかめたリトの眼からはぼろりと大きな雫がこぼれて、我慢しているのだと気付く。
それこそ、わんわん泣けるくらいの大量の涙を我慢して、それでも抑えられないものがゆっくりとリトの努力を邪魔して居るんだろう。弱音も愚痴もほとんど吐かない、忍耐力だけは人一倍あるリトは、偶にこんな風に涙を流す。
前回はいつだったろう。半年、いやもっと前か。そのときも同じようにこの部屋で、僕の向かいで、陽にさらされながら泣いていた気がする。
数少ない友人たちは、リトが泣くのを見たことがないと言う。
僕を前にしてだけ流される涙に、幸福を思っていいものか分からない。
僕は、頬を伝うものを拭ってあげることもせずにじっと見ていた。
やわらかい白のラグに埋もれた手も動くことはなかった。
小さなテーブルひとつ分の距離をそのままに、陽にさらされたリトの弱さを見つめているだけで。
(なんでかな。)
簡単に、この温度で安心させたり、拙い言葉で泣き止ませたり、そんなことができなくなっていた。
ただでさえ白く、人よりも冷たそうな頬を涙で冷やしてほしくはないし、悲しんでいる眼だって見たくない。だけど、僕のそんなわがままのためにリトの涙を抑えこんだり拭ったりしていいのか、わからなかった。
リトのためにすることを、間違えたくなかった。
「なんで、」
のぞきこんで、できるだけやわらかくてあたたかくてこの部屋みたいな、そんな声になるように願って聞いた。前髪の隙間から見える、睫毛が濡れている。
(おまえの、望んでいることってなに。)
僕の視線を逸らすように、リトは更に俯いて、薄い唇で少し笑う形をつくった。そこから、こういうの、と細い線のような頼りない声が漏れた。
「困るね。」
そうなのかな、僕はよくわからない。
ただ、どうしたらいいのかわからないだけ。絡まった糸がとても真っ直ぐだと知っているのに解き方を知らなくて、身動きがとれなくなっている。
この手の居場所も、言葉の置き方も定まらないけれど、動かない僕にリトのどこかが余計に震えてしまっているのは分かったから、首を振った。
そうして梳く、僅かに痛んだ茶色の髪。
「困ってない、でも。」
怯える眼で見上げてくるリトに、言葉が詰まる。
その先の言葉が、リトには間違いだったらどうしようか。
僕は唾を飲み込む。ごろりとした喉仏が上下したのがやけに感じられて、どうしてだろうと思えばリトの視線がそこにあるような気がしたからだった。
リトは、賢い。
僕のなかに、埋まっている言葉や隠している感情やらにいつの間にか気付いている。僕が今、こうして焦っていることもリトは分かっているのかもしれない。けれど、理由までは分かられていないはず。どうして、を想像するリトが導く答えはいつだって自らを責めることで、だから僕は気づかれてしまう感情の理由をできるだけ早く教えてやりたくなった。
違うんだ、リト。おまえのせいなんてことはひとつだってないんだ。
そんな風に。
けれど、僕はいつだって間違ってしまう。
「死にそうな顔、してんな。」
乱暴に涙を手の甲で拭って、上目で僕を見遣るリトは、僕の額を軽く叩いてそう言った。引き戻されるみたいに、上げた視線の先、リトは呆れたように笑っている。僅かに濡れた縁が涙の証拠をつくっているけど、それだけだ。
僕が拭う前にリトは自分で拭って、そうして顔を上げる。
それが、望んでいる正解なのか分からない。
ただずっと僕はそれは違うんじゃないかって、僕は騙されてるんじゃないかって、思うんだ。
リトの良心に。
僕が無力だと嘆けばリトはそんなことないって本心から否定するんだろう。幾らでももっともな言葉を並べて僕を安心させてくれるんだろう。
そんな想像を何度もした。
(そう言うけど、それは嘘だよ。)
そんなことを口にしてしまう僕の姿だって何度も。
リトは悲しい顔をする。僕の言葉が、リトに悲しい顔をさせる。
そのとき、僕は本当に無力になる。立ち竦んだまま、言葉を探してみるけれど、どれもごみのようで。僕の想像のなかで、リトは二度と笑ってくれない。
やさしくしたいなんて、そんなことに気付かなきゃよかった。
気付かなかったら僕は、リトにやさしくできたんじゃないかって。
リト、おまえが泣くたびにそんなことばっか考えるんだ。
(やさしくしたいよ、リト。)
08.06.29
BUMPさんの、「ひとりごと」を聴きながら。消化不良。