I n c o m p l e t e  l a n g u a g e






 「おまえの声なんか、聞こえない。」
 真赤なソファに沈み込んだトワは、ルービックキューブを弄りながら告げた。酷く切れ味の悪いナイフで、無理矢理皮膚を裂かれるような、そんな言葉だと思った。実際裂かれたことは無いけれど。トワはいつだってそんな、 外見には似合いもしないやり方で俺を苦しめる。力ずくで。
 スケルトンのテーブルが中央に設置されたリビング。テーブルの上には、プラスチックで出来た透明の、安っぽいチェス盤が無造作に置いてある。駒なんか、倒れてばらばらだ。当たり前。トワが今関心を持っているのはルービックキューブだけだ。 俺は、その様を駒を並べながら覗き見た。何時間集中しているのか、細く頼りない指の先は僅かに腫れている。
「声、聞こえないの。」
「聞こえないよ、」
 かちり、完成されない音。
「聞こえてんじゃん。」
「むかつく。」
 トワのそれに、俺はくつくつと笑う。
 絶対に、視線を合わせない目はすこし水っぽい。トワの目は、他の人間よりも水分が多く含まれてる気がする。潤むそれは、聞き分けのない子供のよう。眼の端の薄い赤が、不貞腐れているように見えた。幼い、と言えば怒るだろうことは眼に見えているから 、どうにか其の言葉を飲み込む。気付けばいつだって、トワを怒らせるようなことしか考えていない。
 別に、そんなつもりは無いのだけれど。
 俺は、僅かに苛ついた手先を見ながら、知ってるよ、と言った。会話になっているのか分からない答え。トワが、ルービックキューブを見たまま顔をしかめた。かちり。
「最低。・・・ああ、駄目だ。なんで出来ないんだろ。」
 抑揚が無い所為で、罵られる言葉も些末なことと変わらない調子で聞こえる。トワの喋り方。いよいよ飽きたのか、溜息を吐いてルービックキューブをテーブルの上に投げ置いた。がつ、と音がする。テーブルの中央に置かれた果物の入った籠も揺れた。
「傷、つくんじゃないの。」
「どうでもいいよ、それに少しくらい傷があった方が落ち着く。」
 クリア出来なかったことが結構悔しいのか、眉間に皺を寄せた儘言い放った。こいつは、綺麗な顔をしている割に物の扱いが酷い。新品の物なんて二日目には何かしら傷が付いてる。 両腕に、今日も乱暴に巻かれている包帯はその所為だろう。顔は関係ないかもしれないけど、少しくらい外見に見合ったことをやったっていい。
 トワは、胡座をかいたままソファに沈み込む。元々華奢な骨格をしている所為で、その体勢はひどく小さく見えた。
「慰めてよ、」
 なにか面白いゲームを提案する顔で、トワは笑った。口の端だけが上がる。こういうときのこいつは、ヒスを起こす手前。トワのなかの容量を俺は知らないけれど、明らかに持てないものをいつの間にか抱え込んでしまっているから、偶にこうなる。バランスが、取れなくなる。 なにを抱え込んでいるのか、俺は知らない。知ろうとも、しない。
「どうやって。」
 俺は、トワを見上げて聞いた。に、とトワは笑って、白い腕が果物籠から林檎を取った。未だ僅かに青さの残るその色は、トワの口のなか。がり、と案の定固い音。俺もなにか食べようと思ったが、籠のなかには腐りきったバナナ。もうほとんどが黒ずんでいて、触れると柔かった。ねえ、腐ってんじゃないの、これ。くすくすと、トワが笑う。軽い引きつけを起こしたみたいに、喉が鳴った。黒いやつの方が栄養取れるんだって。 何処で知ったの、それ。豆知識。トワが言うようなことじゃないと思う。 
 じゃあ、トワが言うようなことってなに。
「ねえ、慰めてくれないの。」
 たとえばこういうことを、トワは言うんだ。強請る子供のような声にうんざりするくらいに。何度も、求められた。
「だから、どうやって。」
「おまえは、いつもそう聞くな。」
「だって、俺の声なんか聞こえないんだろう。」
「聞こえないよ、だから聞こえる声で言ってよ。」
「トワに聞こえる声なんか、持ってないよ。」
 困り果てた声で告げた。
 囓っていた林檎が、まるでごみのように床に投げられる。フローリングの、床。興味を無くした眼そのままに、トワが啼く。
「おまえの声で、慰めて欲しいんだってば。」
 トワの望む言葉なんて持っていない俺に、言ってくれと、こいつは何度も乞う。どうして、”俺”なのか知らない。
「俺は、なにも言えないよ。俺以外のやつに、聞いてもらえよ。」
「ただしすぎるよ、おまえは。」
 トワが、すこし笑うのが分かった。そのままソファに倒れ込む。色素の薄い髪が乱れた。肩が、僅かに揺れる。
「おかしいの。」
 先刻投げ捨てた林檎を拾いながら、聞いた。
「かなしいんだよ。」
 埋もれた声が聞こえた。くつくつとわらう声が隙間から聞こえるから、からかわれているのかと、俺は僅かに顔をしかめてトワを覗いた。
 髪の隙間から見える大きな黒い目が、慣性で潤んでいる。嘘でいいから、と簡単に折れてしまいそうな弱い声が告げる。
「おまえの声が欲しいんだよ、誰でもなくて。おまえの声で、大丈夫だって言って欲しいんだよ。ねえ、言ってよ。」
 大丈夫だって、おまえの声で。
 そんな願いにも、俺は首を振るんだろう。トワが、俺を望んだって手にはいるのは失望だけだと、きっともう知っている。それなのに、こいつはそれを厭わない。何度でも、乞う。
 そうしてトワが崩れていく。
 その様を見ながら、トワが抱えすぎてるものは今此の瞬間の絶望なんじゃないだろうかと、思った。そうだとしても、俺は薄っぺらい嘘でトワを安心させるのは嫌だった。けして続かない言葉だ、そんなものは。 俺は、自分の言葉に責任なんて持てなかった。
 トワが、崩れていく。
 俺は、その側でばらばらになっている駒をただしく並べようとしていた。ほかにできることなど、無かった。
 トワ。
 俺は、望む言葉を手に入れた瞬間にトワが離れていきそうで怖いんだよ。それなら、一生このままだって、いいじゃないか。


04.03.25