S t a r r y s k y






 真夜中のベランダにひとりで立っていた僕は、柵が無ければそのまま地面に墜落してたのかもしれない。魚のような眼だ、とあんたが言う濁った両眼は真っ黒い夜空を見ていた。 両の手で落ちないようにと掴んだ鉄柵は、冬の水のように冷えている。掌の感覚が無かった。夜気に、頬が凍えた。 ひとの温度が欲しかったけれど、そんなときに求める声を知らなかった。足の先が、冷えて痛い。
 コンクリートを擦る、重苦しいサンダルの音。
「なにやってんの。」
 冷えるよと、まるでそうするのが当たり前のように僕が拒まない唯一の方法を知っているように、左腕を掴む。真夜中の沈んだ声と闇に冷やされた肌。其の温度を確かめるように、あんたはやわらかな力を込める。固い皮膚から、じわりとあんたの温度が入ってきた。僕は、そのとき初めて夜空から眼を逸らした。 あんたの手はいつだって熱い。冷えた体に眉がしかめられる前に、僕は声をかたちにする。ほしの声を聞いてる、とこたえたらあんたは瞬きをひとつ。
「あたま、大丈夫、」
 そうして、左腕を拘束していた手のひらが僕の額を覆う。ひどいな、あんたより頭の出来はいいんだけど。かわいくねえの。重そうな瞼が、すこし閉じてどうしようもない笑い方をつくった。どうしようもない笑い方。
 僕が、あんたのなかで好きなところなんてきっとそれだけ。
「夜になると、無性に人の声が聞きたくなるんだ。」
 額を覆う手を、ゆっくりと退けて言った。
「だけど、誰かと話したいわけじゃない。」
 あんたは、僕の声を静かに聞く。退けた手を離せないまま、僕は居たたまれない気分になる。茶化す癖に、こんなときばかり真面目に聞いてくれなくてもいい。弱さが露呈する真夜中に、やさしくしてくれなくても、いい。僕は誤魔化すように 離せない指先の膨らみを、人差し指と親指で緩く挟む。そうして、やっと続ける。
 だから、あんたを起こしたり、誰かに電話をしたり、そんなことをしたいわけじゃないんだ。
「確かめたいんだよ。」
「なにを、」
「僕のほかに、生きてるものがいるのを。」
 だから、星を見てた。此の真夜中に僕の他に動いているものが見たかったんだ。人でなくても構わなかった。点滅を繰り返す、遠い星でもなんでもよかった。夜に、なにかが確かに生きて動いているのを見たかった。
 あんたは、僅かに眉を寄せて。生きてるじゃないか、と言う。俺が、生きてるじゃないか。それとも。
「おまえ、俺を殺したいの。」
 呆れたみたいな声が、頭上から降ってくる。こたえを出せない僕の行き先を無理矢理誤魔化すようにからかう。あんたは、いつだってそう。なにも知らない子供に、お前はなにも知らなくていいんだよ、と目隠しするように。僕が手の届かない闇に沈もうとするのを、狡猾に掬って。
「馬鹿な考えだよ、そんなのは。」
 言われなくても、知ってる。
 けれど、あんたの言葉はいつだってただしくない。僕にとって、ひとつもただしくない。だからだろう。あんたの声がどれだけ近くにあったって、其の声を捕まえた瞬間に風船みたいにしぼんでいく気がするんだ。
 あんたを、信じられないんだ。
 安っぽい言葉に慣れたあんたに、どれだけの切実なほんとうを見せたら僕の言葉をただしく聞いてくれるのだろう。 黙ってしまった僕に、笑うのが分かった。そんな動作にすら、苛々する。 暗さに慣れてしまった眼が、あんたの確かな輪郭を、表情を教えてくれるから。見えすぎて困る。
 表面的な態度ばかり見えて、嫌になる。
「ほら、」
 反抗するやり方も知らないで、引かれるが儘に部屋のなかに戻される。 あんたが投げるように脱いだサンダルが、足下に転がった。すこし、蹴った。
 僕は、なにか重いものを嫌々背負っているようなその背中を見る。
 その重いものが僕なのじゃないかと考えると、余計どうしたらいいか分からない。引っ張られる手を振り払ってしまえば、いいのだろうか。そんなことをして迷惑を掛けたら困らせるだけだと知っているけれど。あんたと僕の言葉はひとつだって共有できないのに、どうやって此の憂いを伝えたらいい。
 ねえ。
 擦れ違う言葉しか持たない僕たちがどうして同じ場所にいるのか、そのきっかけをもう覚えていないよ。あんたのなにが良くて、面倒を見られているのか覚えていない。どうせ、あんたは僕を理解できないし、僕はあんたを理解できないのに。何のために同じ場所にいるの。
 ぐ、と左腕に力を入れて、癇癪を起こしたこどものようにあんたを引き留める。眠そうな欠伸。 息を吐く音が聞こえた。呆れてる。
「しょうがないね、おまえは。なら、朝まで側にいたら安心するの、」
 そんなに、ひとりが怖いのなら。からかう声。腰をかがめて、あのどうしようもない笑い方で、そんな風にしか言わない。
「する、だから、そうしてよ。」
 げ、マジでやんの。あんたがやるって言ったんだよ、疲れた声に僕は言ってやる。不平を漏らしながらも、あんたの手は離れない。ねえ、なんで眠れないの。どうせ、言ったって理解できないよ。そうかな。そうだよ。
「おまえはまだこどもだからね。誰か側にいれば安心するんだろ。」
「こどもじゃない。」「こどもだよ、」
 知ってる。
 けれど、誰が生きているのか分からなくなる夜の、此の不安はあんたには分からないだろう。こんなにも広く澱んだ世界に、ひとりでいる錯覚が現実のかたちとして浮かび上がってくるんだ。 こんな不安は、分からないだろう。音も無く、声も無く、耳を澄ましても聞こえない誰かの呼吸を僕はひどく欲しがって。求めて。
 だのに、閉じられない眼が見せる暗闇のなかであんたの手だけが確かだなんて。ねえ、あんたはいつまで僕の側にいるの。その声は、あの星空よりも僕の孤独を埋めはしないのに。こんなにも僕を理解できないあんたの 、温度に安心している。僕は、これほど確かなものを知らない。
 じんじんと熱を持つ、緩く掴まれたままの腕。確かめるように加えられる力。
「つめたいね、おまえは。」
 どうしようもない笑い方。
 こんなにも確かなものを、僕はあんたの温度以外に知らない。
 何処かが傷むように満たされる、こんな安心は知らない。
 
 


04.03.21