G e n t l e  k n i f e






 「死んじまえよ、おまえなんか。」
 酒の飲み過ぎなのかなんなのか知らないけれど、がらがらの喉で久川さんはそんな言葉をやさしく吐き捨てる。久川さんの声は人を萎縮させるような、無駄に迫力のある声でよく誤解される。けれど久川さんはやさしい。そう思う。真夜中。自販機から落ちてきた煙草を取り上げて、べりべりと雑に剥がしている。僕が、ではなく。
 透明なセロファンが自販機のひかりを反射していて人工の星みたいだ。
 モンスターでも潜んでいそうな闇夜は、僕には酷くやさしい。こんなに生きやすい世界は無い。久川さんがセロファンをごみ箱に捨てるのを見ながら先刻の言葉を反芻した。
 死んじまえよ。
「酷いなあ。」
 僕より背が低くて僕より逞しい背中を眺めながら相槌を打つ。血に濡れたナイフが手のひらから消えていて、妙な気分だ。使ったものは捨てる。だから、先刻使ったナイフが手元に無いのは当たり前なのだけれど。なんだろう、と思う。右手の先を確認するように動かした。新月の夜。 神経質に動く僕の指。視線を感じてずらした視界の先で、久川さんがそれを見ていた。哀れむような眼だ、と思った。
「その方が、世の中のためだよ。」
 安いライターを点らせて、銜えた煙草の所為でひねくれたみたいな唇が僕に教える。僕みたいな奴は死んだ方がいいと、やさしく教える。 この人はどうして僕の半端な思想を見破っていながら、僕を労るようにこういうことを言うのだろう。
 手に負えない程残酷な僕を知っていながら、どうして。
 久川さんは、僕など理解できないようなところにいつもいる。
「誰が僕を殺すんです、」
 当たり前のように聞いた。僕の手のひらはもうどうしようも無い程血にまみれていて、けれど其の事実に背負う罪悪だって少しも認識していない。僕のしてきたことが悪くないことだとは思っていない。それなりの分別はある。けれど、振り返ったときにはいつも間違ってなかった、と考えている。間違って、無かった。 それに、誰ももう僕を殺せない。
 久川さんは、僅かばかり灰になった煙草を靴で踏み潰して。
「おまえも救えないくらい馬鹿になったなあ。」
 ぢ、と橙の灰が黒いアスファルトの上に消えた。何を言ってるんだろう。
 僕は、はじめから救われるくらい賢くなど、なかった。
「捨てちゃ、いけないですよ。」
「ひと殺してる奴が何言ってんだ。」
 久川さんは苦笑する。それでも、踏みつぶしたぐちゃぐちゃの煙草を拾うのだからこの人は僕に対してやさしいひとに見える。他のルールは守ってます、僕は。言えば、どうだか。と吐き捨てられて。それでもこの人を酷い人だとは思わない。
 奪い取られていくんですよ、と僕は久川さんにも言った。掃除屋のあの男にも言ったことばを、僕はまた口に出している。
「へえ、」
 久川さんはなにが、とは聞かない。そのことを僕は知っていた。
 夜風が舐めるように頬にまとわりつく。
「僕の技術なんて、誰かが簡単に奪っていく。」
 僕は、真っ黒な地面を眺めながら言う。磨かれた久川さんの靴が安っぽい照明にしろくひかっていた。血にまみれた僕とは正反対の、丁寧なきれいさだ。このひとは、もう全く違うひとになってしまったのだ、とやけに冷静に思った。見下すように。不相応なくらい傲慢に、僕は少しだけ久川さんを嘲った。それに気づいて、けれど久川さんは苛立ちもなにも表さなかった。そんな感情を好まない清廉なひとのように。そうしていた。
 僕が嘲うことを、容易くゆるして。
 だから、最後には僕が嘲えなくなる。
 じゃり、と小石を靴底で遊びながら。
「この世に、完全なオリジナルなんて、無いんです。」
 すべて、はじめは模倣からはじまるんですよ。そう言うと、久川さんは俺にはどうでもいい話だ、と呑気に笑う。夜の似合わないひとだ。薄明かりの真っ暗な闇に酷く不似合いな人間だな、と思う。久川さんは、夕方くらいが似合いますね、と言ったら変な顔をされた。僕はそれを見ないふりして、なにもひからない夜空を眺めた。隣で、久川さんがそれにつられている。
(昔はそうじゃなかったのにな。)
 ひとは、変わる。自分も、そのうちこの男のようになるのかと思ったが、絶対になれないだろう、と気付く。絶対に、なれない。 どれだけこのひとと同じ道を辿ろうとしても、どこかで狂うだろう。元の色が違う。このひとがはじめから持っている色を僕は絶対にもつことは、出来ない。僕は、久川さんほど賢くは無いのだから。
「殺しの技術がどうだとか、俺にはもうどうでもいいことだけどさ、」
 そうだろう、と僕は思う。 あなたのやり方はすべて僕が奪ったのだから。あなたの血にまみれた手のひらまで、僕は自分のものにしてしまったのだから。
 けれど、そのときのことは少しも覚えていない。いつの間にかそうなってしまった。僕は、それくらい自然に当然のように久川さんのものをすべて奪った。
 夜空から視線を逸らして隣のひとを見れば、水中に火を沈ませるときのように静けさをした眼が真っ直ぐに空を見ていた。夜の静けさとは別の。
 決して明けない、静けさ。
「おまえは、結局奪われたがってる風に見えるよ。」
「見えますか。」
「ああ、見える。」
「じゃあ、そうなんだと思います。」
 僕の答えに、ひねくれた奴だなあと久川さんは苦笑する。
「自分の技術が完璧に奪われて、別の人間のものになるのを待ってんだよ、おまえは。」
 こんな風に。偶に決め付けた言い方をこのひとはする。けれど不思議なことに押し付けがましくは感じなくて、寧ろ大抵当たっているものだから、勝てないと思わされる。
 勝てない。
 嘲えても。
 絶対。
「そしたら、自分がこの仕事をやる意味もなくなる。」
 だろう?
 久川さんは、笑う。
 僕は、遠くの派手で野蛮な人口のひかりを見詰めながら、少し笑った。久川さんは間違っていない。 それでも、こうして久川さんが僕を理解しようとする度に僕は埋められない程大きな差を感じる。生きている場所の、大きな違いを、感じる。
 耳が夜風で固く冷えている気がした。僕は、指先で耳朶を挟みながら。
「だけどね、久川さん。」
 僕は言う。
「僕を超える人間なんかいたら、僕は生きる意味だってなくなる。」
 もし、そんな人間が出てきてしまえば。
 僕と同じで。僕と同じ方法で。
 けれど、そこには少しも僕の色が滲まない、そんな人間がでてきてしまえば。
 僕は、居る意味が無い。
「おまえはおまえだよ。」
 人を、殺さなくても。おまえはおまえだよ。それだけだろう?
 僕はゆるく首を振る。
(それじゃ足りない。)
 僕は、この右手にナイフを持って殺めていくことしか出来ない。それしか知らない。
 久川さんは、僕が手遅れだということから眼を逸らしているのだ。僕のために。勝手に。
 滑稽だなあ、と思う。人権を無視した、馬鹿な殺し屋相手に。
 アイデンティティ。そんなものを幾ら引き合いに出しても、それでしか生きていけないと言っても、身勝手な殺し屋でしかない。ひとを殺してる、冷酷な人間でしか、無い。真っ当な人間になんか戻れるわけはない。
 戻りたくも、無い。
(どうか、僕を生かそうなんて思わないで。)
「俺は、やめませんよ。」
 言う。久川さんは、はじめて僕の前で眉をしかめてみせた。知ってたよ、そんなことは。そう言って二本目の煙草に火をつけた。橙の火。それは、酷く脆い明かりで。宙へと昇っていく灰色の煙が、夜空を霞めていく。
 死んじまえよ。
 思えばあの言葉だけだったな。ほんとうにやさしかったのは。
 僕は。
 僕は、久川さんにそう言われて、言ってもらえて、うれしかったんだ。
 ほんとうに、うれしかったんだ。
「神崎。」
 煙草を吸っている久川さんは、こちらを見ないで名前を呼んだ。
 僕はその口がまた、あのやさしいことばを吐かないだろうか、と考えて、久川さんの吸う煙草を眺めていた。けれど、久川さんは二度と言わなかった。灰が、すべてコンクリートの海のなかに呑まれる前に僕は久川さんに背を向けた。じゃあな、と久川さんは最後に言った。死んじまえ、とは言ってはくれなかった。
 久川さんが剥がしていたセロファン。人口の星。僕は真夜中にそれを思い出す。
 死んじまえよ。久川さんの言葉。
 僕は、明日も誰かを殺す。
       


04.11.06