きみについて知っていた10のことがひとつずつ減っていく。
(アレク、
なんで僕を置いていくの。)
ア レ ク
自分がだめだっていうことがたまに分かるんだ、とアレクは言った。
「だめって、どういう風に。」
蜂蜜色の前髪に隠れた両目を、覗くように見上げて聞いた。うっすらと赤くなった頬には影が落ちていて、容姿に恵まれた彼の面を研ぎ澄ませてみせる。感情をどこかに置いてきたようにぼんやり佇んでいるから余計、生まれつきのきれいな線が際立って人形のように見えた。
僕の問いに、微かに揺らいだような眼は、けれどそれ以上変化することはない。
ひかりを感じさせない無機質な空気は人形そのもので少し不安になる。下を向いているくせに、僕を見ることはない、どこをみているのか分からない両目。
(いつからおまえは、そういう眼をしてんの。)
使われなくなった講堂の床に、じわりと沈黙がしみこんでいく。埃まみれの硝子窓から射し込む、ぼやけた夕日の色が何も答えないアレクの頬の腫れた赤と同化した。
転がっていくバスケットボールを引き寄せて、僕はなんともない振りをして、頬を見つめる。
「殴られたの?」
「ああ、これ。」
今はじめて気付いたように腫れた頬に触れるものだから、まさか気付いていないのかと心配になる。
「腫れているよ。」
「心配、」
やわらかさをたたえた目元が意地悪い色を宿してわらう。
「からかってんじゃねえよ。」
忌々しく吐き捨ててやれば、楽しそうに喉を震わせる。
知らない内に、アレクはそんな切り返し方をするようになった。
アレクの前に立ちはだかる薄い膜のようなものに、僕の言葉がぽしゃんとぶつかって勢いを失い墜落していくのが分かる。僕の言葉はもう、ただしくアレクの耳を震えさせることはない。
こんな短い距離でもすべて届かずに、ぼろぼろとこぼれてしまう。こぼれたものは、僕とアレクの間に無意味に積もっていく。積もれば積もるだけアレクが分からなくなっていく。
いっそ、腐って跡形もなく消えてしまえばいいのに、いつまでも僕の目の前から消えない、アレクに向けた言葉たちは。
それが僕の視界をおかしくする。アレクを見る僕の視界をおかしくする。
おまえの輪郭が、昔みたくはっきりしないよ。
なんでかな。
(本当に、痛くないの。誰に、殴られたの。)
こんな言葉だって聞けなくなっている。
幼さを落としたように痩せた、滑らかな頬。きっと、ひどく熱を持っているだろうそこ。
昔のように、その怪我に触れられない。
(いつから。)
確かな境界線。それはいつだったのか。昨日、一昨日、一週間前、先月、それとももっと前か。気付かないくらい、自然にじわりと襲ってきた違和感。
思い出せない、そのことが僕を僅かに絶望させた。
絶望は、アレクの行動や言葉の端々から幾度も浮き上がっては僕のなかに沈んだ。
(きっと、自惚れていたんだ。)
勝手に、アレクのひとみや手のひらや温度や声を知った気になっていただけだ。そう思わないと、何かを諦めてしまわないと話せなくなってしまいそうで何度も言い聞かせた。僕の頭に、感情に、そして身体に染みこませた。
喉の奥にこもったままの熱を、もう何度抑えただろう。
本当なら、今だってその無駄に長い腕引っ張って保健室に放り込みたいのに。
赤い頬から視線を逸らして埃がちらつく床を見つめた。この声が、僅かにでも感情を滲ませないように。
「冷やした方がいいんじゃないの。」
「これくらい大丈夫でしょ。」
「顔、大事にしたら。」
「なんで、」
「恵まれてんじゃん。」
さらりと言えば、疎ましそうな顔をつくるからおかしい。
「アイドルじゃないんだから。」
足下に転がったボールを取り上げて、軽くフォームをつくる。ただしくきれいなフォームではないのに、目を惹かれた。僕にも他の誰にもない「特別」を神様から与えられているみたいに。抗えないただしさがあった。
僕のなかのアレクは、いつだってだめなんかじゃなかった。それは今も、変わらない。
だって、「特別」なんだ。
(アレク、だめって、なんだろう。)
「ばか、アイドルじゃなくたって武器になるよ。」
(おしえてよ。)
「そうかな、」
「その顔に助けられるかもしんないし。」
「ええ、どうやって。」
「一文無しになったら、きれーな、年上のお姉さんとかが拾ってくれるかもしんない。」
「ふ、ありえねえ。」
てか、何、なんのAV見たの。
笑った所為で崩れたフォームに僕は少し安堵する。それと同時に感じる、軽い危機感。
期待をしてしまう。
いつかの、言えない言葉なんか思いつかなかった頃に。
戻れるんじゃないかと。
(くだらない、そんなの。)
「見てないし。」
「妄想?」
ボールを再度床に置いて、しゃがんだアレクが首を傾げて聞いてくる。
「ばっか、男のロマンだろ。」
「ええ、そう?」
「うん。」
「へえ、わかんねえ。」
それはおまえが不自由してないからなんじゃないの。言わないけど。美人なお姉さんなんか、そのカオがあれば幾らだって寄ってくるのだろうし。そんな考えに興ざめして、まあアレクはそうだろうね、と言えばつまらなそうな顔。
「なんだよそれ。」
答えを教えてもらえない子供のように口を尖らせたアレクは、僕と近い場所にいる気がする。でも、そんなのは一時の錯覚なんだろう。僕にはもうアレクのことなど分からない。分かることが出来ない。
だって、視界がおかしい。
「そのままの意味だよ。ねえ、アレク。」
「ん、」
立ち上がって今度は僕が見下ろす。蜂蜜色の、髪。
「おまえはだめになんかなってないよ。おまえがだめなら僕なんかもっと駄目だ。」
もてないし、特別な才能もねえし。そうして意図せず苦く笑んでしまって顔を逸らす。じ、と見上げてくる視線を首の辺りに感じて思わず手をやった。
「なにそれ。」
呟くような声。けれど、誤魔化すように笑いを含んだ、僕が分からないアレクの声だ。また、逸らされるのだ、と絶望と言うよりは諦念のような感情が喉の辺りから押し込まれていく。
いやだな、次の言葉を聞きたくない。意味もなく片耳に手をやってしまって、思わず息がこぼれた。
(ばかみてえ。)
繊細ぶって。
この話は終わりにしよう。アレクの望むとおり適当に誤魔化してしまおう。そう思って口を開いた矢先に、アレクの声が聞こえた。
意味、わかんない。
アレクは、そう言った。
意味が、分からないと。
「え、」
予想外の言葉に、思わず顔を向ければアレクがわらっている。まるで先刻の僕のような苦い顔で。
「おまえは、大丈夫だよ。大丈夫。全然。」
そうして口端だけを上げる。そんな笑い方は知らない。おまえのそんな表情は知らない。
「俺はわかんないけど、おまえは、大丈夫でいるよ。ずっと。」
(なんで、そんな言い方を。)
僕もアレクも大丈夫ではいられないのか。僕のそばにいたときは、ずっと大丈夫だったじゃないか。それはずっと変わらないことにはならないのか。そんな風に、考えてしまってはいけないのか。
(アレク。)
「大丈夫で、いて。」
軽く窺うように見上げてくる眸。
「ふ、わけわかんねえ。やっぱり頭いいよな、おまえ。」
俺は、その眼を見ずに少しわらった。
よく分からない、この夕焼けの色に混じって入ってくる不安を誤魔化してしまいたくて。アレクにも、気付いて欲しくなくて。
(わかんないよ。)
だって『特別』なんだ。
昔からずっと、おまえは特別だった。なのにどうして、そんなことを僕の知らない顔をして言うんだ。
話してくれなければ。
もう。
おまえのことなんかわからない。わからなくなってしまった。
「どういう風に駄目になんの、アレク。」
問いに、アレクは答えなかった。見上げた視線をそのままに僕の言葉にゆるく笑った。知っているはずの笑い方は、まるでべつもののように見えた。
逸らされている。
分かっていたけれど、それは先刻俺がやったことと変わらなかった。
「俺、呼び出されてるから行くわ。」
とん、とボールを渡されて。
「じゃあ、また明日な。」
そう言って講堂から出て行った。僕は動くことができなかった。渡されたボールも両手からすり抜けて、埃っぽい床を転がった。
(こわいよ。)
変化が。
けれど、時間が経てば経つほど僕はアレクのことが分からなくなっていくのだろう。今よりももっと分からなくなってしまうのだろう。今でさえ、あの言葉に何も返せなかったのに。これ以上に、増えてゆくのだ。ああいうことが。安堵しては期待して、反対にじわりと恐怖を植え付けられる。
(いつか、アレクのことを少しも分からなくなってしまうのかも知れない。)
「こえー。」
ぶるりと最低な想像にからだがふるえる。しゃがみこんで顔を覆った。
どうして変わってしまうんだろう。大人になるためか。社会で生きるためか。それとも、変化は変化ではなく、成長なのだろうか。身長が伸びるのと同じように僕とアレクが離れてしまうのも成長なのだろうか。
もしそうだとしても。
僕は、おまえのことが分からなくなる僕なんか、手に入れたくなかったよ。
アレク。
07.06.29