深呼吸しても変わらない



 
 
 
 
 嘘だ、とは思わなかった。


 黒く濡れた道路が、街灯でてらてらとひかっている。
 急いで履いて出てきたブーツの底が、何度か音をたてた。通りから外れた道はひどく静かで、自分の動悸だけが耳に響く。それは、「あれ」がどれだけこのからだの割合を占めているかを自覚させるようで、富田は顔をしかめた。考える必要もなく、「あれ」が自分の最優先になっている。恋人よりも、セックスよりも、友達よりも。高校の友人の誰が0時を過ぎた真夜中に電話を鳴らしたとしても、自分は会いに行ったりしないだろう。それが2年付き合った彼女でも同じだ。富田の身体を動かすのはいつでも一人だけであって、けれど、その一人をどう名付ければいいのか分からなかった。
 いつから、こうなのか分からない。いつから、これが駄目になってしまうのかが分からない。
 カメレオンみたいだ、とあれが揶揄した長い首に、夜の冷えた風が触れた。
「・・・さむ。」
(プログラムされてんのかな。)
 生まれた時に組み込まれた優先事項の一番上にあっただとか。
 そうだったら、よかったのに。


「おっせー。」
「ふざけんな。」
 コンビニの前、薄い体がしゃがみこんで富田を待っていた。富田の声は、口調とは逆に柔らかく、それを受けた男は困ったように眉をしかめて笑った。安っぽい蛍光灯に照らされた顔は白く、こんな真夜中では余計頼りなく見える。男としては自分より劣っているその身体に、つい優しくしてしまう。その度に彼は不機嫌になるので富田は知らないふりをする。
 先週より痩せてしまった身体なんかを。
「なに、どうしたの。」
 目の前に立って落した言葉を、丸い眼が見上げてきた。
 黒目がちの、やけに我の強そうな眼球。
(俺がSだったら、今すぐ殴りたくなるみたいな。)
 そんな。
「どうもしない。」
 富田の問いにあっさりと言い放った一言を、なんとか頭で噛み砕くと、子供に言い聞かせるような声が出た。
「・・・ね、今もう1時近いよ、」
 そんな時間に呼びつけて、おまえは何を言うのかと富田は眉を下げた。しかも、彼女と一緒だったのだ。最低と罵られ、長い爪で引っかかられそうになりながらここまできたのだ。
(ほかに、いるんでしょう。)
 そんな言葉も言われた。
 ほかに?
 これは、彼女の言う「他」に当たるだろうか。
 どうなのだろうと、富田は理生を眺める。
 華奢な身体、骨張った手首、よく噛む癖のある薄い唇、生意気な眼球。
「いいじゃん、おまえどうせあの女飽きただろ、」
 そうして見上げてくる眼は幼いくせに、富田よりもずっと優位に立っている。自分の何もかもを、小さな手のひらに掴まれている。そう思えてならなかった。
 富田には全く理生の思考など読み取れないのに、理生には読み取られているように。
 富田はそれを、悔しいとも疎ましいとも思えず、ただ、おもしろいと思った。
 他、があっち側であるのだと教えられいるようで思わず顔がゆるむ。
「俺といる方が、たのしいよ。」
 だから、来たんだろ。という表情で言われ、富田は一瞬彼女の顔を忘れた。
(他、はあっちだ。)
 夜のつめたい空気とは真逆の、頭に血が上るようなひそめた熱。
 富田は、操る術を知らずに、誤魔化すように口の端をゆがめた。
「そうだよ。」
(お前といる方がいいから、来たんだよ。)
 車のライトが、ころりとした黒眼にひかりを映した。
「一人で帰りたい気分じゃないんだ。」
 そうして立ち上がった、自分より5cm低い身体。
 スニーカーを履いた足がだるそうに動く。富田は華奢な背中を見送りながら、その後に続いた。
「なんかあったかと思ったよ。」
「あるわけない。」
 理生は、笑ったようだった。
(なんかあったら、こいつは絶対俺を呼ばない。)
 富田はそのことを知っている。
 だから、何も逃したくないのだと思う。馬鹿みたいに必死に、後を追っている。物事を辿れば行為を辿れば、すべて理生に行きつく。
 本当は知っているのだ。
(おまえが、離れたがっていること。)
 富田は息を吐いた。
 吸い込んだ夜気は冷たく、微かに排気ガスの匂いがした。
 目の前を理生が歩いて行く。
 街灯の少ない暗い夜道とは言え、見失うほどの距離ではないのに目を離せない背中。冷たい空気を身体に取り込み、吐く。リセットするように繰り返して、それでも。
 浮かび上がった言葉に苦笑いしか出ず、富田は理生の名前を呼んだ。面倒くさいのか彼は返事もせず、細い頸が僅かに傾いだだけだった。



07.06.29